今日ののりべぇ 3月11日  月曜日 (旧暦2月5日)

今日ののりべぇ
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やはり今日は、あの日のことを書かねばなりません。

私がこのブログで書くことなど、大した内容ではありません。しかし、やはり書かねばなりません。2011年3月11日のこと。改めて犠牲になられた方に心より哀悼の意を捧げさせていただきます。そして被害に遭われた皆様には、心安らぐ日が訪れ、そして(心安らぐ日々が)続きますことを心より願っております。

あの日、のりべぇは…。

当時ののりべぇは、自宅で現在の仕事を行なっておりました(現在は自宅と職場のハイブリッド)。

ラジオから緊急地震速報が流れた瞬間、自宅の一室で昼寝をしていました父(その日、父は非番)を叩き起こしました。「くる!」とだけ叫んで。直後、地震が発生しました。長い時間の揺れでした。私はその時、「早く止まれ!」と叫んでいました。

地震が止まり、幸い停電にはならず、すぐにテレビをつけて状況を確認しました。次に行ったのは、会社への連絡です。もちろん電話など繋がりません。刻々と報じられるニュースに、呆然とするばかり。ああいう時は何もできないんですね。同時に割れたガラスを父と処理し始めました。マンションの管理人さんが各部屋を周り、安否確認を始めていました。玄関で割れたガラスの処理をしているところに管理人さんがやってきましたので、うちは全員無事であると伝えました。

片付け終え、その後は携帯電話を握りしめ、会社への連絡を行いながらテレビにかじりつきました。やがて津波の一報が入り、これが現実なのか、はたまた映画なのかと錯覚したほどです。この経験はこの日から遡ること約10年前のニューヨーク同時多発テロを彷彿とさせました。テレビは事実を伝えているはずなのに、その事実を受け止められず、映画と錯覚してしまう自分に辟易としました。

やがて幸運にも私の携帯電話が会社の人の携帯と繋がりました。地震発生から1時間ほどのことです。状況報告のみを行い、原稿の締切日でしたので、その処理だけを行ってその日は終わりました。しかしテレビでは依然として、大きな被害の報告が続々と放映されていきます。

実際に大きな被害に見舞われた方にこのような話をするのは誠に不謹慎であることは承知の上ですが、あまりにリアルな場面をテレビというメディアを通じて目にしますと、それが現実なのか、はたまた映画か何かなのかと錯覚に陥ってしまいます。それが現実だと受け入れたのは、皮肉にも余震が発生してからのことでした。

何もできない。それでいいのか?でもできない!

率直な自分の気持ちです。ただテレビを観ながら「みんな、助かってください!」としか言えない自分。なぜこの日に、このタイミングで、こんなことが起こるのか。でも、何もできず、ただテレビを観続けるだけ。しかも、翌日には取材が待っていました。なんと、予定通り行うとのこと。2社に対し、土日の2日間を使って。となれば、自分にできることしかしなければなりません。残念ですが、これが現実です。偉そうなことなど言えません。

翌日の取材の時の話…。

翌日の取材は厚木市に向かう案件でした。電車が満足に動かず、急いでレンタカーを借りて向かいました。それも、商用のバンしか残っておらず、それで向かったのですが、首都高を走る際、何台もの消防車、救急車がサイレンを鳴らして隊列を組み、被災地へ向けて走っていきました。

予定通り、厚木市に着いたのですが、その際、目にした光景は、何事もなかったのように、公園で遊ぶ家族連れの姿でした。皮肉にもその公園名は「ぼうさいの丘公園」。普段は遊具が整った大きな公園として利用され、災害発生時には避難拠点となる公園です。取材を終え、帰途につく間、少々複雑な気持ちになりました。でも、これも現実です。大きな災害が東北地方を中心に発生したとは言え、厚木市では被害は皆無。普段通り、ぼうさいの丘公園で家族連れが遊んでいるのは決して不謹慎ではありません。それでも、ライフラインが途絶している中、必死で生きている被災者の方と重なって見えてしまう光景に、何も言えませんでした。一人で行ったとは言え、黙って家に帰りました。その次の日も同じような光景でしたが、唯一異なったのは、返却時にガソリンスタンドに立ち寄れなかったこと。ここで初めて、関東でも生活に影響が出始めていることを実感しました。

募金、寄付。それくらいしかできなかった。

これが本音です。ボランティアとして被災地に向かうことは、定期刊行物を発行しているライターにはできないことでした。大きな被害に遭われている方もいらっしゃいますが、日常を捨てるわけにはいかない。これも本音です。ならばと、募金や寄付はさせていただきました。自分ができること。でも、それしかできなかった。これが事実。できないことを声高に主張するのではなく、できることをできるなりに行う。それしかなかったのです。

もし自分が被災し、家族を失っていたら。を考える

何もできない自分を責めたり、事実を認めることはともかく、逆の立場で考えてみたのが、地震発生から1週間後のことでした。もし自分が被災し、家族を失っていたらと。その時考えたことはただ一つ。「何もできず、ただ右往左往する自分の姿しか浮かばない」でした。

自分はボーイスカウト経験者であり、高校時代は体育会(ラグビー部)に所属していましたので、アウトドア経験から救急法の講習受講経験、さらに体力には自信があるとはいえ、東日本大震災で被害に遭われた方と同じ体験をした際、その経験が活かせるのかと。答えはノーでした。頭で考え、過去の体験(それもせいぜい遊びの延長線上にあるもの)を元にしたところで、未曾有の大災害を目の前にしたら、体験や自信の有無じゃないんですよね。

だからこそ、無力だった自分の経験も記録する。

事実をありのままに記録すること。それは決して、被害に遭われた方だけのことではありません。被災地域から離れた自分であっても、当時のことを記録し、自分の体験を残すこと。そしてそれを後世に残し、もし大きな災害が起こった時に、過去にはこういう経験をした人がいた。自分はどうするべきかを考えてもらう。これも大切なことではないでしょうか?

今後、関東でも大きな地震が来ることが予想されます。「自分ならこうする」という対策法も大切でしょうが、実は「何もできない自分」を起点に考え、そこから「できることってなんだろう?」とゼロベースで考えることも大切なのではないでしょうか?少なくても自分はそう思いました。今でもそう思います。歳を重ねれば、誰だって体力も判断力も劣ってきます。日々刻々と変化する自分自身に何ができるのか。そればかりを考えて過ごすわけではありませんが、時に振り返ることも必要だと、のりべぇは思っております。

今日は堅い内容で失礼しました。明日からは「平常通り」のブログを書かせていただきます。

次回「は」お楽しみに!

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